東日本大震災にあたって

平成20年 小屋館城址から大島を望む

災害と祭り

平成23年3月11日、東日本大震災の大津波により損壊・流失した氏子の家屋は五百戸余りにのぼり、死者についてもその数は百名を超えました。氏子百数十名が神様のもとに駆け上がり一命を取り留め、60名が十日間の自主避難所の生活を送りました。鎮守八幡様は、将に氏子の命を守る砦となったのでした。
その年の秋の例祭前夜祭では、海望む境内に殉難者の慰霊塔を建て、御霊たちの御心を鎮め慰めました。その後、神前に移り、神々に海と大地の平穏を祈りました。そして最後に、震災の遺児たちも参加して、鎮魂の太鼓を捧げました。翌日の神輿渡御祭には仮設住宅に暮らす被災者も駆け付け、神輿を担ぎ、瓦礫と化した浜里を祓い清めました。神と人が力を合わせたお祭りでした。
3年後の3月11日、地元の石屋さんのご奉仕で犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が境内に建立されました。地区毎に自治会長さんがお名前を確認され、ご遺族から承認を取っていただいた上での百五十四名の刻名でした。伝統的な地域社会は死者との絆も大切にしてきました。匿名の死ではなく、固有名詞の死を悼み合ってきたのです。


平成20年 境内より望む 慰霊碑

祭りと芸能

平成24年6月24日、歴史的縁から埼玉県熊谷市の市民が気仙沼市民会館で歌舞伎を上演してくれました。熊谷市民のヒーロー熊谷直実の子孫が多く住む気仙沼への復興支援です。夢のような歌舞伎の舞台は、悪夢のような津波の惨状を一時忘れさせるものでした。当日の会場は、色を添えた熊谷、気仙沼双方の郷土芸能の競演、手を差し伸べた人々、そしてそれに応え再起を期す人々のエネルギーと交歓の熱気に溢れるものでした。


熊谷歌舞伎の舞台に投げ込まれたおひねり
(全て気仙沼市へ寄付)の紙に書かれていたメッセージ299枚を、
熊谷桜にちなんで、熊谷家の婦人たちが制作した桜の貼り絵
熊谷市有志から贈られた熊谷椿を
モチーフにした貼り絵


→ 一谷嫩軍記 熊谷陣屋之場について、詳細はこちら

祭りと芸能

東日本大震災では、氏子地域の沿岸部が大きな被害を受けました。特に尾崎地区は90数戸が全滅してしまい、27名の尊い命が失われてしまいました。 しかし33名の部落の人たちは、部落の守り神である尾崎神社の境内に駆け上り、九死に一生を得ました。33名が協力して、迫りくる津波に流されないように体を縄で縛りつけたりして、不安な一夜をそこで過ごしました。後に水没してしまった尾崎部落は解散しましたが、今でも10月の第4日曜日には離れ離れになった人たちが尾崎神社に集まり、お祭りを行っています。

尾崎大名行列

明治時代の初め、当地方にコレラが流行しました。尾崎地区ではコレラが部落内に入ってこないように八幡様に願をかけました。その願いがかなって、コレラの被害がなかったことに感謝して、八幡様の神輿渡御に大名行列を奉納したそうです。女物の着物を羽織って行列する風流な大名行列で、昭和の初め頃まで行われたようです。戦後は気仙沼港祭りにも参加しました。

大日如来座像



文化2年(1805年)、古谷館熊谷家の別家、尾崎賀美家8代熊谷長作が造立しました。東日本大震災の大津波で石像も御堂ごと流されましたが、約60メートル離れた場所で、海に向かって座っている姿で見つかりました。今も廃墟の中に静かに座す姿は、あたかも復興を祈っているように見えます。



庚申供養塚(見猿聞猿言猿)

旧松崎と岩月の村境に文政8年に建立された記録が残っています。大津波で流されて行方不明になっていましたが、瓦礫処理をしていた業者が発見し、八幡神社に運んできました。今は境内の石碑のわきに横になって置かれています。


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