気仙沼熊谷党と八幡神社

気仙沼熊谷党と八幡神社

気仙沼市は「全国で最も熊谷姓が多いまち」といわれます。同市内の熊谷姓は小野寺姓に次いで二番目に多く、約1350世帯で、全世帯の5%を超えます。気仙沼の熊谷姓の多くは、源平合戦で「日の本一の剛の者」と称された源氏の武将熊谷次郎直実の孫、熊谷平三直宗を始祖と仰ぎます。直宗父直家は源頼朝の奥州討伐(文治5年=1189年)の戦功で気仙沼地方を下賜されたものの、気仙沼に下向することなく、後に加増された芸州(広島県)豊田郡に赴きました。芸州の熊谷氏は武勇を重ね、やがて毛利氏に仕えることになります。直宗は承久の乱に出陣、戦功により父の代に領地とした当地方に加え新たに本吉、桃生を与えられ、赤岩城を築いて貞応2(1223)年に当地方に着任しました。

以来、気仙沼地方の地頭として、要害の地に城館を築き一族を配しました。各城館にはそれぞれ八幡様が祭られています。戦勝祈願と一族の団結、繁栄を祈願したのでしょう。

往古から八幡神社が鎮座するこの松崎には、建武2(1335)年、赤岩城5代当主直時の弟直景(ナオカゲ)が「建武の大乱に功有り、松崎の村主」となって配されました。その後、熊谷一族は内部の抗争を繰り返しながら、正平18(1363)年、赤岩城6代直政の時代、ついに葛西氏に降伏します。熊谷一族の多くは葛西氏の臣下となり、戦国の世の大きな荒波に揉まれ、やがて消えていきます。天正18(1590)年豊臣秀吉の奥州仕置により、小田原に参陣しなかった葛西氏は滅亡し、その家臣の熊谷一族の城館もことごとく落城しました。一族は離散し、新領主の伊達家や隣国南部家に仕官した者、帰農した者、行方不明の者行く末は様々でした。それぞれの館跡には小さな八幡様だけがぽつねんと残されていました。しかし、やがて世の落ち着きと共に、帰農した熊谷一族はそれぞれの地域で村役人として藩政に重用され、江戸時代から明治に至るまで肝煎、大肝煎、地方議員等の役割を担った家も少なくありませんでした。各館跡の八幡様も熊谷氏の氏神様から村の鎮守様へと役割を変え、時代を超えて崇敬されていくことになります。

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熊谷氏関連の史跡

平八幡神社

前九年の役に源頼義は下野国平野八幡神社に戦勝を祈念し二本の矢を神璽として奉斎しました。葛西家臣熊谷直重祭礼を奉行しました。

赤岩館氏神 平八幡神社
参道には大サワラ(県天然記念物)
 

宝鏡寺

熊谷直宗を開基とします。
元中6年(1369)虎渓良乳和尚が気仙郡矢作村の弥陀ヶ原に小庵を結びました。大永4年(1524)現在の新城村玉眼沢に移転しました。

赤岩館菩提寺 宝鏡寺
山門(県指定有形文化財)
 

補陀寺

大永4年(1524)長崎館二代直元が病気を憂い細浦山荘を建て祝髪、精舎を営みました。白華山補陀寺と称し円通大王久成如来像を安置しました。(熊太系図)

長崎館菩提寺 補陀寺
六角堂(県指定有形文化財)
 

正法寺二世 月泉良印

建武2年馬籠の戦いで戦死した桃生群寺崎城主熊谷直能の長子直常の遺児で、波路上城で生まれました。能登国総持寺で峨山大和尚に師事し、水沢の正法寺(曹洞宗第三の本山)二世を継ぎました。

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ゆかりのある箇所

赤岩館(本城)・中館・月館

太郎左衛門直春は南部家に走り、150石で出仕しました。
直春祖父の弟直久は20貫で伊達家に出仕しました。
左:中館 中央:月館 右:赤岩館(本城)  

 

長崎館


長崎館跡
掃部直長は白石攻めで負傷し津谷館岡で療養、慶長14年没しました。
直長の子直知は慶長19年の大阪の陣に参戦。直知長男久直の子孫は代々本吉北方大肝煎。その後、気仙沼に移って「熊太家」と呼ばれました。直知二男定清は伊達家に出官し、子孫は召出950石に累進しました。

 

小屋館

熊谷左京進信直は高野山に遁世後、館址に戻り八幡神社別当大照院跡を中興しました。
八幡神社は後に仙台藩御一家鮎貝家の祈願所、同家家中は大照院の祈願檀家となりました。
小屋館氏神 古谷館八幡神社  
小屋館城址  小屋館城址二の丸
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熊谷桜

 

早咲きの八重桜。熊谷直実が一ノ谷の合戦で平山武者所と先陣争いをしたという故事にちなんで名付けられました。東日本大震災直後、気仙沼の早期復興を願って熊谷市民が植樹しました。

熊谷桜の名前は、古くは江戸時代の初期の文献に見られ、また有名な貝原益軒による大和本草(宝永5年、1708)の桜の項の中に取り上げられており、江戸の中期には熊谷桜が高名な桜であったことが伺われます。
園芸は江戸時代に盛んになり、江戸末期には250種類以上の桜の品種が記録されていますが、その多くが幕末の混乱で行方不明になりました。
熊谷桜もその一つで、ゆえに幻の桜と言われていました。
その熊谷桜を熊谷市の「桜ファンクラブ」(会長 横田透さん)の皆さんが、探しだし、接ぎ木し、大事に大事に育てて復活させたのです。
熊谷直実の孫である熊谷直宗を祖とする熊谷党が多く住む気仙沼。いわば孫のまちが今回の東日本大震災で被災したのを機に、その早期の復興を願って熊谷桜の苗木が、当八幡神社をはじめとする気仙沼の人々に贈られました。
平成26年4月13日には、「花の嫁入り」と称して88本の苗木が、気仙沼の被災した人たちのところにお嫁入りしました。

人力車に乗って桜がお嫁入り 熊谷市の皆さんから気仙沼の人たちに一鉢ずつ桜の苗木が 手渡されました。
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年史


明治時代の境内風景

永承6(1051)年 前九年の役 鎮守府将軍源頼義奥州遠征の時、八幡神社を勧請
天喜5(1057)年 源義家修復(本吉郡誌836頁)
文治5(1189)年 源頼朝平泉征討 熊谷直実の子直家本吉桃生賜る
貞応2(1223)年 直家三男直宗が将軍藤原頼経から本吉郡1千余町を賜り、計仙麻荘に赤岩城を築く(唐桑町史88頁)
建武2(1335)年 熊谷平六郎直景(赤岩城5代直時の弟)松崎居城
正平18(1363)年 赤岩城6代直政、葛西詮清に降伏
弘治元(1555)年 松崎城熊谷左京之進信直が大照院を中興。
天正16(1588)年 信直三男善十郎直紘が軍功により葛西晴信公より三千刈拝領。浜田の乱に戦功三千五百刈加増。葛西晴信公が獅子頭を寄進
天正18(1590)年 奥州仕置。葛西家断絶。小屋館城、最知末永館落城
延宝7(1679)年 鮎貝越中、堤村より松崎村に所替え。八幡神社を祈願所とし、同家家中は大照院の祈願檀家となる。
元禄16(1703)年 辨財尊天碑建立
享保8(1723)年 獅山公熊谷館に於て社内別当に御目見被仰付候
宝暦12(1762)年 境内に秋葉神社、八雲神社、若山神社勧請。
文化3(1806)年 社殿改築(本願 鮎貝主税藤原盛辰)
文化14(1817)年 尾崎の長作一行伊勢参宮。 天照太神宮碑建立
天保13(1842)年 年栄他「両部神楽相伝録」「神楽尊記」著す
安政5(1858)年 年栄「遠島御神楽番数記」記す
慶応元(1865)年 伊勢熊野等参詣
明治2(1869)年 神仏分離 修験道禁止 花厳院復飾して熊谷直喜
明治初年 コレラ流行、尾崎の住民病気退散祈願、報賽に風流「大名行列」を奉納
明治10(1877)年 村社加列願提出(神官 館森與右衛門)
明治11(1878)年 熊谷大善(栄蔵)教導職試補
明治15(1882)年 尾崎漁民湾内で鯨を捕獲し売却金で石階建立
明治20(1887)年 西南の役戦死「芦立寅松顕彰碑」建立
大正元(1912)年 謡曲師範「佐藤直記頌徳碑」建立
大正4(1915)年 鳥居建立(御即位御大礼記念)
大正6(1917)年 忠魂碑建立(松岩村尚武會)
昭和45(1970)年 忠魂碑副碑建立(松岩遺族会、英霊顕彰会)
昭和53(1978)年 社殿改築
平成6(1994)年 伊勢参宮(63名)石清水、橿原正式参拝
平成8(1996)年 社殿、忠魂碑移転
平成9(1997)年 参集殿新築、境内整備
平成13(2001)年 御創建960年大祭
平成23(2011)年 東日本大震災
平成24(2012)年 気仙沼復興祈願歌舞伎上演
平成26(2014)年 伊勢参宮 舞殿完成 記念コンサート
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